2024年07月04日

思わず「あっ」と声が出そうになる程

思わず「あっ」と声が出そうになる程、道三は驚いた。

しかし、決してその顔に当惑や動揺の色は浮かべなかった。

娘の気持ちが信長に傾いている事など、既に文を通じて知っている。

賢き姫のこと、大方こちらが信長の命を狙っていることを察して、あえて短刀を持たせたのだろう。

信長の命を守る為に──。

そこまで姫の心はこの若者に奪われてしまったのかと、道三は父親として、何やら物悲しい気持ちになった。

同時に、同性である信長に軽い嫉妬の念を覚えたが、今更彼を斬りたい等とは微塵も思わなかった。

もはや道三自身が、信長に惚れ込んでしまっているからだ。https://blog.udn.com/a440edbd/180749761 https://classic-blog.udn.com/a440edbd/180749678 https://mathew.blog.shinobi.jp/Entry/5/


「──信長様、取り敢えずこれで、御足をお拭き下さいませ」

道空が縁に駆け寄り、几帳面に折り畳まれた袱紗を手渡すと

「いや、お気遣いは無用」

信長は懐から自分の袱紗を取り出して、それでぱっぱっと足の裏の泥を落とした。

暫くして縁の上に信長が上がって来ると

「婿殿。我が娘は…帰蝶は達者で暮らしておるかのう」

道三は抑揚のない声で伺った。

「帰蝶? ──ああ、お濃のことにございますか」

「おのう?」
「某が、祝言の折にあの者に与えた名にございます。美濃から参った姫御前です故、濃姫と」

「ほぉ…あの帰蝶が、濃姫にな」

姫自身は、あくまでも尾張での自分は“濃”。

美濃側と接する時の自分は“帰蝶”。

文の上でもそのように名を使い分けていた為、道三はこの時初めて、娘の婚家での名を知ったのである。

まさか、信長がその場の思い付きで与えた名だとは思いもしない丹後は

「きっと、美濃から迎えた御高貴な姫君という尊敬の意を込めて、左様にお名付けになられたのでしょうなぁ」

と晴れやかな顔をして言ったが、内心帰蝶という名の響きを気に入っていた道三は

「ほんに、我が娘は随分と簡素な名になったものよ」

と無感動に言った。

「覚え易うてようございます。蝶のようにひらひらと、儂の手の内から翔んで行かれては困ります故」

信長は冗談めいた微笑を浮かべながら言ったが、道三にはそれが“姫は何があろうとも手放さぬ”という彼の意識表示のようにも思えた。

「…で、我が娘は如何かのう?」

「達者にしておりまする。嫁いでより一度も病床に臥せる事なく、至極健勝にございます」

「では、娘は幸せに暮らしておるのじゃな?」

道三の問いに信長はクイッと片方の眉を上げると、やおら小さく首を捻った。

「さぁ…。幸せかどうかは、某には分かり兼ねまする」

「何じゃと」

「お濃に、幸せか?などと直に問うたこともございませぬ故、俄に判断が付きませぬ」
信長は淡々とした面持ちで答えると

「なれど、親父殿」

付け足すように呟くや否や、その口元に優しい微笑を湛えた。

「少なくとも某は今、間違いなく幸せにございます。お濃という、賢くも面白きおなごを妻に迎えることが出来て」

「─…」

「夫君(ふくん)である某が、これほどに幸福というものを感じているのです。妻であるお濃の御意も、これに同じと心得まする」

信長の涼やかな貴公子の面持ちに、一瞬、恋を覚えたばかりの少年のような初々しさが覗いた時、

信長に捧げられている娘の愛が、単なる一方的なものではないことを感じた。

「婿殿、そなたはもしや、まことに帰蝶を……」

「はい?」

「いや、何でもござらぬ」

道三は慌てて首を横に振ると、その脂ぎった顔に苦笑を浮かべた。



Posted by beckywong at 00:22│Comments(0)
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